「ミャンマー東北部、中国の影響下を行く そのT」

             中小企業診断士  都築 治

 平成23年3月16日(水)から27日(日)にかけて、ミャンマーの東北部を中心に日緬友好協会会員の浅野静二君と二人で旅をした。旅の目的は、中国の経済発展が同地域にどのような影響が与えているかを間近に確認することであった。行った所はミッチーナ、バモー、ナムカン、ムセ、ラショー、ティーボー、ピンウールウィン、マンダレーである。

1 ミッチーナ

 3月20日(日)、ミッチーナにはエアーバガンの双発機でマンダレーを8時35分の便で発ち、9時40分に着いた。迎えの自動車がやって来るまで、飛行場の前の店でしばし休息する。自動車到着後、直ちにエーヤワディ川の源流のあるミッソンに向かった。
 ミッチーナはカチン州の州都であるが、中国側からのアクセスが若干悪いためか、予想していた程には中国発展の影響を受けていないように感じられた。シャン州の州都のタウンジーやラショーと比べると、経済発展から取り残されたかのように静かなたたずまいを見せていた。しかし、オートバイと自動車の普及が目覚ましい。また、以前(1999年8月)訪れた時と比べると、十字架が掲げられた民家が減少して来ているように感じられた。カチン州ではキリスト教徒が最大の勢力で、ことさらクロスを強調する必然性が少なくなった所為かも知れない。さらに、街の中のいたる所では、翡翠で金持ちになった見られる豪邸が見られるようになった。
 ミッソンに行く道路は途中まで整備されており快適であるが、左折して山道に入ると悪路になる。ミッソンはミッチーナからは北方40数kmの所にあり、マリカ川とメイカ川が当地ミッソンで合流して大河エーヤワディ川になる。
 ミッソンに着いて驚いたことは、聖なるエーヤワディ川の源流が無残な姿に変貌していたことである。カチン州では砂金が採れ、多くの人が砂金採りに従事していることは聞いていたが、その一つがミッソンであることは知らなかった。砂金採りのためにミニ集落が形成され、川岸は土が取り除かれて石ころだらけになっていた。さらにこの状況が進むと、全く違う景観になるかも知れない。もっとも、賢明なミャンマー政府のことであるから土を埋め戻して以前の景観を保つかも知れない。ミャンマー人の心のオアシスが、今後どのようになって行くか見守りたいと思う。
 
 ミッソンを訪れた後は、市内にあるスタウンピィとアンドーシン・パヤーに行った。前者は日本人の寄付で建立された寝釈迦像で、バゴーやヤンゴンの像よりもかなり小振りであるが、優しい顔立ちをしている。アンドーシンには釈迦の奥歯のレリックが安置されている。
 ミッチーナはクリスチャンが多数派であるが、仏教徒も少なからず居住する。私はパヤーと寺院・僧院は全く別の範疇のものであると記したことがあるが、アンドーシンではパヤーと僧院が同一の敷地内にあり、日本の寺院の様相を呈している。本来パヤーと寺院・僧院は全く別のものであるが、地方に回るとこのような形態のものが時々見られる。
 二つのパヤー参拝後は、カチン州立博物館に行った。20日は日曜日で休館であったが、当地の旅行社が手配してくれて見物することができた。カチン州に居住する主な民族グループの民芸品や祭事用の品などが展示されていた。特に私が注目したのは、各言語のアルファベット表であった。
 ホテルに行く途中にカテドラル(大聖堂)があり、ミャンマー語で書かれた新訳聖書を購入した。3500k、携行用ブックケース1000kである。同行した浅野君は、上智大学の大学院出身でキリスト教に関して強い興味を持っており、ミャンマー語で書かれた沢山のキリスト教関連の書物や物品を購入した。
 ミッチーナの中心市街地をしばし散策し、中心街の一角にあるパンスン・ホテルに到着した。同ホテルは4階建てで近代的な外観をしているが、バスタブはなくシャワーのみである。
 しばらく休んだのち夕食に行こうとしたが、ホテルの近くにあるYMCAで日本語を教えている女性に廊下で出会う。彼女は愛知教育大学の出身で、同大学は刈谷市にある。私は刈谷市の出身であるから、しばし話がはずむ。彼女の話で、東京外語大修士課程の大西さんがカチン語の研究でYMCAに滞在していると言う。彼を呼んで来ると言うので1時間ほど待ったが、なかなかやって来ない。しびれを切らしてレストランに向かう。行ったのはジンボートゥ・レストランと言う名のカチン料理店であった。同レストランでカウンイェーを飲む。カウンイェーはカチンやチンの地酒で濁り酒である。1杯800kであった。甘い酒であるがアルコール分が強く、酔っぱらってしまった。ホテルに戻っても元気が出ず、そのまま寝て仕舞う。
 翌21日の朝、ホテルの周辺をタウン・ウォッチングする。私は地理学科の落第生であり 5年間の大学生活を送ったが、商業担当の中小企業診断士の経験が少なからずあり、街を見て回るのが習性になっている。ホテルに戻り、カバンを開けようとしたが開かない。荷物が沢山あり強引に押し込んでロックした時に、ロック番号が狂って仕舞ったかららしい。ホテルのボーイさんに頼んで、ドライバーでこじ開けてもらう。
 ホテルを9時過ぎにチェック・アウトして、マーケットに行った。ミッチーナの商店街は州都としてはみすぼらしいが、マーケットは州都に相応しいものであった。ヤンゴンのボージョー・マーケットと違い、土産物品はほとんど売っていない。地元の人が着る衣料品が充実している。ミッチーナはミャンマーの最北部の州都で、寒さ対策用の衣料品が沢山見られた。マーケットでは、トランクス2500k、肌着1500k、ラペットー500k、梨800kを購入した。 
 浅野君がYMCAに行きたいと言うので、同所を訪問することにする。彼は昔同YMCAに宿泊したことがあると言う。大西さんを呼んでもらうと、しばらくしてやって来た。昨夜はくだんの女性から話は聞かなかったらしい。大西さんはミャンマー語に堪能で、将来はジンボー語研究で学位を取る予定らしい。YMCAには熊本YMCAの桐原奈緒子さんらもやって来ていた。YMCAは世界の各地とネットがあり、友好協会と違い資金の潤沢さが羨ましい限りである。
2 バモー

 ミッチーナ発は11時30分で、バモーには5時30分に着いた。ミッチーナからムセに通じる道は、インドのレドからの道路の延長線にあり、援蒋ルートの一つとしてレド公路と戦時中は呼ばれていた。前回は早朝にミッチーナを発ち、夕刻にバモーに到着したのであった。
 道路は石が敷き詰められており、車はガタガタするが快調に進む。このことが、バモー、ムセ間では予想以上の悪展開となるとは予想できなかった。前回は雨季の8月で、道路はぬかるみ、平坦地では道路が水没し道なき道を通ったことが何度もあった。
 途中ワインモー郡のナンサンヤンチェ村で昼食を摂る。二人分で7500k、中国製のビールは1000kであった。
 途中オートバイと何度も出合った。前回の道中では、見られなかったことである。バモーに近づくと敷石はなくなっており、アスファルトの簡易舗装が荒れたままになっていた。郊外には、近代的な建物のバモー工科大学が見られた。

バモーの宿泊先はフレンドシップ・ホテルである。2007年に増改築されており、前回泊まった時と比べると大幅に充実した設備になっていた。前回はバスタブがなくシャワーのみでお湯が出なかっが、今回は内装もきれいになっており、ヤンゴンやマンダレーのホテルと比べても遜色のないレベルに達していた。朝食も何品かが自由に選べるようになっており、前回のトースト、目玉焼き、コーヒーとは大違いである。
 2008年8月から10月にかけてヤンゴンの商工会議所内のMyanmar Industries Association(MIA)で日本語を教えていた時、バモーの女性教師がおり、トレーダース・ホテルの様な高層ビルが一杯建っていると言っていた。しかし、高層ビルは1棟もなかった。けれども、ヤンゴンの繁華街で見られるような5階建て程度の建物は何棟も見られた。バモーは中国の国境に近く、ミッチーナと比べると街はよく発展して来ており、中国との交易の一端が見られた。
 街を散策後、ホテルから歩いて行ける距離にある中国料理店に行った。二人分で9200kであった。ビールは800kであった。
 翌22日、ホテルを9時に発ちマーケットに行く。マーケットはホテルから歩いて3分程度の所にあり、勝手知ったる感じである。品揃えが見違える程に豊富になっていた。
 バモーの河川港はマーケットのすぐ近くにある。10年以上前から、中国はバモーに注目しており港の整備を一生懸命にやっているとのメディアの報道があった。以前日本商工会議所の研究会で、その後バモーはどうなったかと雲南大学の先生に聞いたことがある。彼は、プロジェクトは全然進捗していないと言っていた。全くその通りで、その時からでさえ何年も経っているが、港の整備はほとんど進んでいなかったし、中国の交易船らしきものは見られなかった。日本のメディアの報道が、実にいい加減なものかがよく分かる。バモーは戦略上の要所で、簡単には中国側の言いなりにはならないというミャンマーのしたたかさが窺われる。
 次に行った所は中国寺院である。12支の像が建物の前に見られた。へびがコブラであったり、羊が山羊のような形をしているのが、日本と異なる所である。
 協会会員の伊藤京子さんの「ミャンマー 東西南北・辺境の旅」に載っているサンパナゴにも行った。シャン国の勢力がここまで及んでおり、当時藩王(ソーブワー)がここに居住していたと言う。現在はその面影はないが、パゴダや僧院が建っている。
 浅野君の意向で華人基督協会に寄った。日本のメディアでは、ミャンマーには信仰の自由さえないと報道されることが多いが、ここカチン州では、各宗派のキリスト教、イスラム教、仏教などが仲良く共存している。いがみ合っているような様子は窺われなかった。
 
3 ムセ

 バモー出発は10時で、ナムカンには18時20分、ムセには19時に着いた。前回の時は雨季であったが、バモーからムセまで6時間の行程であった。今回は9時間も掛ってしまった。運転手が平均時速15kmで走る。何度も何度も早く走れと怒鳴りたくなったが、じっと我慢をする。多くの車やオートバイが追い越して行く。前回と比べて対向車が沢山走っている。古い車ではあるが、廃車寸前の車ではない。経済力の向上が感じられる。
 このノロノロ運転のために、ナムカンに着いた時はすでに暗くなっており、街の景観がはっきり見えなかった。ナムカンの街の様子を確認することは、今回の旅の目的の一つであっただけに気分の悪いこと限りなしである。今回は乾季の旅で、バモー、ムセ間は5時間と見積もっていただけに、9時間も掛かるとは予想だにしなかった。地図を見ても分かるが、ミッチーナ、バモー間よりもバモー、ムセ間の方がはるかに短い距離である。ガタガタすることはお客に悪いと運転手が考えていたか、自分の車の調子が悪くなってしまうと困ると考えていたかからか、どちらとも判断が付かない。
 道路の整備状態は前回と変わらないが、道幅は広くなっていた。前回は雨季で、何台の車がぬかるみで動かなくなっていた。我々の車はポンコツ寸前の4輪駆動のジープであったが、動かなくなった車をそのたびに引っ張ってやったものである。ガタガタの道を40ないし45km程度スピードで走った。そのために、シャフトにひびが入ってしまったことだった。
 イライラのためホテルに着いても食欲がなく、夕食を食べることなく寝てしまった。

 23日、ムセで泊まったホテルは、中国国境のゲートに程近い所にあるトゥインスター・ホテルである。前回泊まった同じホテルであるが、外観がすっかり変わってしまっている。このホテルもバスタブはなく、シャワーのみである。ミャンマーではバスタブのないホテルが多く、風呂好きの日本人にとっては地方回りはつらい旅かも知れない。
 7時に朝食を取り、街を散歩する。ホテルのすぐ近くに国境のゲートがある。前回見たゲートとはすっかり違っている。中国の経済発展が垣間見える。ゲートで中国側の写真を取ろうとしたが、守衛さんがノーの合図をする。こんなことで諦める私ではないので、少し離れた所からカメラを望遠側に設定して堂々と写す。1時間程国境周辺を散策する。中国側は高層ビルが何棟も建っており、近代的な街並みとなっている。これに対してミャンマー側には高層ビルはなく、建物の外観もやや貧弱である。
 ヤンゴンと比べるとムセは寒い。ほぼ全員が長袖の着物を着ている。黒っぽいものを着ている少数民族の出稼ぎらしい人も多く、またズボンの折り目がないので、日本のテレビで見る北朝鮮の人みたいに貧乏人らしく見える。まだ洗練されてないかららしい。
 9時にチェック・アウトしてムセの市街地に向かう。ムセの街はすっかり変貌していた。近代的な建物が何棟も見られ、各商店の品揃えも格段に充実している。ムセでは保温・保冷のステンレス製のジャーと容器を購入した。それぞれ1500kであった。別の店では女性用の財布を2万8千kで購入した。中国人用の土産品とミャンマー人向きの商品は何点か見られるが、日本人が欲しいような商品は余り見られない。ヤンゴンからは遠く、バガンやインレー湖などの観光地とは違い、外国人観光客はほとんどやって来ないからであると考えられる。
 今回の最大の目的はムセの変貌状況を確認することであったので、予想通りに街は発展しており、感慨を新たにした。
つづく
 
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