ミャンマーの暮らしと商業事情 新訂版

             中小企業診断士  都築 治

(1)ミャンマー概要

ミャンマーはタイ、ラオス、中国、インド、バングラデシュと境を接し、面積は日本の約 1.8 倍 67.7 万ku、人口は 58,800 千人(2008年度推定)の農業国である。ミャンマーは超多民族国家で、一説では 135 民族が国内に居住していると言われている。
その中でも主力なのがバマー族で、全体の7割近くの人口を占めている。
同国は、以前は社会主義国であったが、現在は社会主義の憲法を破棄して市場経済の道を一歩一歩着実に歩んでいる。このあたりが、ベトナムなどと違うところである。日本国内でも有名なアウンサンスーチー女史は、欧米のマスメディアや輿論等を巧みに活用してミャンマーの民主化を訴え、その関係もあってか、スーチー女史を支援する一部の欧米諸国からは反民主的な国家として政治的な干渉を受けている。
 ミャンマーで主力を占めるバマー族は、イギリスの長い統治時代最下層の地位に追いやられていた。その上の階層にあったのがキリスト教徒化されたカイン(カレン)やカチン、チン等の少数民族である。バマー族が官吏や兵士、警察官になることは容易ではなく、教育を受ける機会も少なかった。また、イギリスが連れてきたインド人や中国人が、それぞれ地主や商人として中間層を形成していた。
ミャンマーはイギリスの占領下、もしくは属国下にあった国の中で、随一イギリス連邦に加入しなかった。このあたりの歴史的背景や、絶対多数を占めるバマー族の反アングロサクソン的な民族感情を理解しないことには、欧米流の民主化のやり方を嫌う現政権のかたくなな態度を理解することはできない。
ミャンマーでは、車の通行はイギリスの領土であったにも関わらず、右側通行になっている。ほとんどの車両が中古の右ハンドルの日本製で、このアンバランスには驚かざるを得ない。「イギリスが嫌いだから、わざと右側通行にした」との話をしばしば耳にする。イギリスの占領政策が、いかに嫌われていたかの証左ではないだろうか。
ミャンマー最大の民族バマー族では苗字がなく、江戸時代の一般庶民のごとく名前があるのみである。アウンサンスーチー女史は建国の英雄で神格化されたアウンサン将軍の娘で、その関係でアウンサンが苗字、スーチーが名前のように思われるが、アウンサンスーチーで一つの名前である。アウンサンスーチーではやや長すぎるので、一般的にはスーチー女史と称されている。
ミャンマーのGDPの産業構成比は、農業 48.4%、商業 22.3%、製造業 11.6%、運輸・通信業 10.3%、建設業 3.9%、行政 1.1%、鉱業 0.6%、電気・ガス・水道業 0.1%、金融業 0.1%、その他1.7%となっている(2004年度推定)。
名目GDPは272億$、名目GDP/人は462$(2008年度推定)とされているが、複雑な為替制度やその他の要因により、正しい数値はつまびらかでないようある。
GDPの数字だけから考えると、非常に貧乏な国になってしまうが、統計に表れない部分が多く、世間で言われているような世界の最貧国では決してない。複雑な為替レート、自給自足、物々交換、売上高の自主申告、帰順反政府勢力の懐柔策などにより、捕捉し得ない部分が余りにも多いからある。
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  ヤンゴンのマハバンドゥ―ラ通り

(2)ミャンマーのインフラ

 ミャンマーは長い間社会主義国であった。それもマルクス・レーニン主義によらない独自の社会主義を唱えていた。そのために、「バマー式社会主義」と言われていた。上座部仏教の思想と、日本の軍隊のシステムを倣ったところが多分にあったような感じがする。
日本では一時マルクス・レーニン主義が正義で、資本主義はそれに対立する概念と言う考えが、言論界で優勢を占めていた。そのために、ベトナム、カンボジア、ラオス、中国、北朝鮮などに好意的な人が、ミャンマーとなると,軍政国家だという論理で批判的な態度を示すことも多いようである。
 社会主義の実験は終わり、多くの共産主義国や社会主義政権国は崩壊してしまった。ミャンマーも同様に、社会主義であった政権はもろくも崩れ去ってしまった。社会主義時代の後遺症で、ミャンマーのインフラ整備は遅れている。日本の経済援助が現在事実上ストップしているので、その整備は遅々としたものである。しかし、近年中国からの経済援助が盛んになり、インフラ整備が進んで来た。
ミャンマーの人によく言われる。「中国が一生懸命にやってくれますから、もはや日本には期待していません。」そのために、ヤンゴン市内では停電が少なくなって来たようである。各地の道路事情も好転して来た。エーヤワディ川などの大河には、長い橋が何本も懸かるようにさえなった。最近では、インドがミャンマーに力を入れるようになった。タイなど周辺国との関係も良好である。
現在のミャンマーの状況は、日本の昭和 30年代中頃の感じを連想すると、その感じがよくつかめる。当時は日本国もまだ貧しい状態だった。昭和30年代に入ってようやく貧乏から脱却し始めた感じがする。ミャンマーの現状は、当時の日本を見るようである。
 往時の日本のように、数か月後に再度ミャンマーを訪れると、街の景観などが見違えるような状況になっており、びっくりすることがしばしばである。

(3)ミャンマーの国民性

ミャンマーの国民性は日本人とよく似ている。恥ずかしがりやで、余り自己主張をしない人が多いようである。また、日本人と同じような笑い方もする。ミャンマー語の語順は日本語と同じで、「てにをは」のような助詞がある。遠い昔、チベット高原を南下したのがミャンマー人、東北に向かったのが日本人と考えているミャンマー人が多いと言われている。
以前、ミャンマー第2の都市マンダレーの商工会議所の議員諸氏と会談したことがある。日本側の代表団は何人も質問するが、ミャンマー側からは何等の質問も返って来なかった。唯、会頭さんが役目柄喋るのみである。このように自己主張が少ないことは、日本人の精神構造と極めてよく似ている。ミャンマー人の有力者からは、「日本から武士道を学んだ」との話もよく耳にする。
また、全体的に日本人のように勤勉家が多いように見受けられるが、中国人やインド人と比べると、商人としてのどん欲さにはやや欠ける面があるように思われる。その面、質朴な人が多いとも言える。ミャンマーの人と話していると疲れないし、日本国内にいるよりもむしろゆったりとした気分になることができ、不思議な感じさえする。日本人にとっては、阿吽の呼吸で相手の気持ちが分かり合える数少ない国と言うことができる。
(4)最大都市ヤンゴン

ヤンゴンはミャンマーの最大の都市で、現在の人口は 450 万人と言われている。街の中心部はかつての領主国イギリスによって都市計画され、碁盤目のように区割りされている。
その中央部分にスーレー・パヤーがあり、ランドマーク・タワーとなっている。スーレー・パヤーは金箔で覆われ、夜間になるとライトアップされ、終日光り輝いている。同パヤーの西側がインド人街、さらにその西側が中国人街となっている。インド人街の北側には、有名なボージョー・アウンサン・マーケットがある。ボージョーはミャンマー語で将軍を意味する。ボージョー・マーケットはヤンゴン最大のマーケットである。
96年の 12月に、最初にヤンゴンを訪問した。その時、中国人街を散策しミャンマー特産のシャンバッグを購入した。店の人に安くしてくれるように交渉したが、応じてくれなかった。その時、たまたま米$しか持ち合わせがなく再度現地通貨を持って行ったものだから、今度は店の方で気持ちだけ安くしてくれた。その時買った値段は 170 チャッである。日本円に直すと、当時のレートで140円程度である。シャンバッグは布製のショルダーバッグで、多くの日本人はミャンマー訪問のお土産として買って帰る。
また、その時同行した連れの診断士が、ボージョー・マーケットに程近い所にある眼鏡店でメガネを購入した。店の名前はYE眼鏡店と言うが、一式で 20米$だった。当時のレートは1$100円程度だったから、2千円と言うことになる。その診断士が記念の写真と言うことで、検眼してくれた女医さんと一緒に写真を写した。その時、女医さんの肩に手を回したものだから、女史はび
っくりしてしまった。後で知ったことであるが、人前で女性の肩に手をやるな
どはあり得ない行為だと言うことだった。

(5)ミャンマー最後の王朝のあったマンダレー

 マンダレーには、すでに 15 回以上も訪れている。現在の人口は約 100万人と言われている。ヤンゴンと比べると中国の雲南省に近く、中国の影響が色濃く表れている。
市の中心部には王城跡がある。王城内では王宮が再現され、当時の面影を残している。王城は堀で巡らされており、京都御所の感じよりどちらかと言えば二条城に近い感じである。王宮は第二次世界大戦の時に、日本軍とイギリス軍との戦いで徹底的なダメージを受け炎上してしまった。ミャンマー政府は96年11月からを観光年と定め、そのために王宮が急遽再建されたのである。
マンダレーはミャンマー最後の王朝のあった所で、そのために見どころは沢山ある。マンダレーの周辺には、興亡した幾多の王朝時代の名残があり、日本の近畿地方を連想されると、その雰囲気が感じられる。マンダレーに住む人はその他の地域に住む人たちと比べると、京都人のように何となくプライドの高さが感じられて興味を引く。
首都ヤンゴンの市内は自動車で渋滞し、市街地では二輪車は禁止されているが、マンダレーではオートバイ、自転車がいっぱい走っている。自転車のほとんどは中国製で、驚くべきことは、メーン通りではなく横道の道路幅が40m近くあるものが多いことある。その中央部は簡易舗装されているが、その他の部分は未舗装のままである。経済力が向上して来れば、強力な武器になりそうである。
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  ゼージョー・マーケットに隣接する青空市場
(6)地方都市

ミャンマーでは、国内各地に人口 10万人以上の都市がいくつも見られる。
国土の多様性、各民族による幾多の王朝が興亡した歴史、イギリスの占領政策による拠点づくりなどによるものと考えられる。このあたりが、タイの極端なバンコク集中型と趣が違うところある。
 仏教徒が大半であるバマー族、モン族、シャン族などの民族が中心の都市では、街中に金箔の仏塔が見られる。キリスト教徒が多いカチン州では教会の姿が多く見られ、独特な都市景観となっている。ミャンマーでは信仰の自由がないなどと言う人が日本の文化人の中にさえ見られるが、全く見当違いである。かつてのマルクス・レーニン主義による社会主義国を類推した考え方から来たものと思われる。
都市には、必ずのようにマーケット(ゼェー)があり、街の中心となっている。地方都市へ行くと、少数民族の人たちが特産品を持って集まって来る様が見られ、ミャンマー観光や視察の楽しみの一つとなる。
 シャン州のラショー、ムセ、ナムカンなどは中国の影響が、マンダレー近郊にあるピンウールーウィン(旧名メイミョウ、メイはイギリス人のメイ大佐、ミョウはミャンマー語で町を意味する)などはイギリス統治時代の雰囲気が、ザガイン地区の主要都市の一つモンユアなどではインド交易の影響の様が見られる。
ミッチーナーやタウンジー(それぞれカチン州、シャン州の州都)などは日本の田舎都市の風情であるが、風格が感じられる。シュエボーは、ミャンマー最後の王朝を興したアラウンパヤーが築城したコンバウン王朝の最初の都であるが、鄙びた田舎都市となっている。
その他マグウェやピィ、パテインなどの地方の主要都市も、それぞれ独自な景観を示している。日本の歴史ある一部の地方都市のように、ミャンマーでは地方色豊な鄙びた都市景観が多く見られる。
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  シャン州ニャウンシュエ郡ナムパン村 パオ族
(7)ミャンマーの経済事情

ミャンマーは第二次大戦後イギリスから完全独立し、1962年から 88年まで、26年間に亘って社会主義国だった。当時は、世界的に社会主義国がもてはやされた時代であったが、そのためにミャンマー経済は疲弊してしまった。
60年代初頭は、ミャンマー当時のバマーは東南アジア屈指の強国だった。国連の事務総長にウ・タン(U THANT:ウは男性の尊称)が就任するなど、近隣諸国と比べるとその国力は抜きん出ていたように思われる。当時のバンコクの日本駐在人は、ラングーン(現ヤンゴン)まで買い出しに出かけたものであるとの記事をよく目にする。
1988年に「バマー式社会主義」経済体制は崩壊して、市場経済化と開放経済化が進行した。そして、民間投資が大幅に規制緩和された結果、各セクターでは民間部門の生産額が国有部門を上回るようになった。
社会主義時代は農産物の取引が制限されていたため、生産意欲に乏しい面があった。また、タイ、中国など隣接国との間での国境貿易が公認された結果、貿易額が大幅に拡大している。しかし、97年のアジア経済危機の影響により、98年度の経済の伸び率は頓挫したが、99年度以降は再び伸びを示すようになった。近年では、10%程度の伸びを示しているようである。ミャンマーはいまだにベールに包まれた面も多いが、隠れた経済成長国となっている。
中国との国境貿易の町ムセでは、中古の10トントラックに何十トンもの荷を満載した車が、数百台も通関待ちのために待機している様を見たことがある。ムセからは一昼夜でマンダレーに到着可能である。
ミャンマーは農業が最大の産業の国で、工業生産面では特に世界に誇れるモノは見当たらない。その代わり地下資源には恵まれており、近年天然ガス田の開発が進んでいる。またミャンマーは宝石大国で、日本で取り引きされているルビーや翡翠、サファイアなどは、ミャンマー原産のもの圧倒的に多いと考えても間違いないであろう。
(8) ミャンマーの商業事情

ミャンマーの各地を視察すると、ゼェー(マーケット)が多いのが目に付く。そこでは日用品と共に食料品がよく売られている。食料品は目方で量られて売
られているが、地方のマーケットでは、分銅代わりに液漏れした単一の乾電池が広く使われているのにはびっくりしたことがあった。乾電池は色々な製品に使われているから、分銅よりも信頼性が高いのかも知れない。
 一般のマーケットでは、定価というものがないから相対で値段を決めることになる。日本人がお土産として現地の民芸品などをマーケットで買う場合、価格交渉をしなければならない。言いなりで買うと、かなり高い買物をしたこと になりかねない。また、店舗を構えて正価を表示しているような店の場合、全く価格交渉に応じない店もまま見られる。この当たりの見極めが、土産品を買う場合など大切になる。
ヤンゴン最大のマーケットは、先に述べたボージョー・アウンサン・マーケットである。そこでは日用品、衣料品、民芸品、骨董品、宝石などお土産にするようなものは、あらゆるものが揃っている。マーケットの右隣がFMIセンターで、日本の高級専門店ビルのような感じとなっている。衣料品店などファッション関連の商店が充実している。
マーケットの向かい側地区は商店街を形成しており、あらゆる物が売られている。本屋、眼鏡屋、かばん屋など、同じ業種の店舗が集中的に集まっている。そのため、買い物するには大変便利である。旅行用のかばんなどを購入すると、
大変安く買うことができる。観光やミャンマー語学習用の書籍なども、ホテル
内の店で売られているよりも相当安く売られている。
電化製品、カメラ、時計などは、日本で言う中型のショッピング・センターでも多く売られている。ヤンゴン市内には、何か所もショッピング・センターが見られるようになって来た。そこでは、欧米のブランド品も数多く見られるようになった。かつての秋葉原のような電器屋街も形成されている。日本製のブランドと韓国のブランドがよく目に付く。
市街の中心部のスーレー・パヤー通りには、以前免税店があった。酒類と共に、 日本の醤油や味噌、そば・うどんなど日本食の食材が数多く売られており、そこで、観光案内の冊子を買ったことがある。東京の神田で買う価格の半値位だった。
ダウンタウンを歩いていると、食堂や喫茶店がよく目に付く。最近、店内がとみに明るくなって来たように感じられる。また、以前見られなかった靴やベルトを売る店が目立つようになった。ミャンマーでは、男も女も巻きスカート (ロンジー)を着用し、素足でゴム草履履きが通常のスタイルである。ズボンを穿き、靴を履くということは、各家庭にエアコンが普及しつつある兆しとも考えられなくはない。経済力が向上しなければ、エアコンを家庭で使うことはできない。
市内では、布製のシャンバッグではなく、皮革製のバッグを肩に下げている人が目立つようになった。女性のあいだでは、短めなスカートを穿く人も現れるようになった。ファッション感覚がますます向上し、おしゃれな人が増えているようである。そのため、婦人服専門店が随所で見られるようになった。数年後には、日本人女性観光客の観光スポットになるかも知れない。
 現在ミャンマー最大の娯楽となっているのは映画で、映画館の建物が市街の各所で見られる。このあたりも、日本の昭和30年代の光景とよく似ている。80円位払うと、比較的良い位置で見られるそうである。しかし、ビデオの普及の関係か、近年映画館が急速に減少しているように感じられるようになって来た。
ボージョー・マーケットの向かい側には、日本人の経営するトウキョウ・フライド・チキンの店があり、ヤンゴンの人たちの人気スポットとなっている。
また、欧米感覚の明るい喫茶店も各所で見られるようになった。
しかし、全体にまだ多くのヤンゴンの商店の店舗は間口が狭く、店内が薄暗 いままになっている。店内が暗いと清潔感に乏しい感じがする。したがって、日本人旅行客には汚らしく感じられ、入店し難い店舗となっている。外国旅行をすると、日本の商業の仕方との比較ができ、参考になることが多い。

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  左側の建物がボージョー・アウンサン・マーケット、その奥の建物がFMIセンター
(9)ミャンマーの食べ物

 ミャンマーの醤油は魚醤である。魚類を発酵させて作った醤油であるから、独特のにおいがする。このにおいと食用油をたっぷり使った料理が平気だったら、ミャンマーで食べ物に困ることはほとんどない。同国の料理は、中華料理とインド料理双方の影響が強く出ており、油で炒めたもの、豚やチキンのカレーなどが主力である。
牛は農耕や牛車用として広く使われ、いわば家族と同じような立場にあるから、ミャンマー人の多くは、牛肉を食べることは少ない。
主食はお米であるし、豆腐や納豆のある地方もある。ただし、米はインディカ米主体で、ジャポニカ米ではないからねばり気は少ない。その代わり、チャーハンやお粥にすると大変美味い。ちなみに、美味いと言うミャンマー語は「アヤダーシイデー」(意味は、味がある)である。ご飯は「タミン」で、日本語と同じように食事と言う意味もある。
 ジャポニカ米や、日本古代食の赤米や黒米が食べられる地方もあるし、ヤンゴンの露天では小豆で炊いた赤飯を売っている店もある。全く日本のお赤飯と同じ味だった。
ミャンマーでは多くの国民は川魚を食するが、海の魚は余り食べない。ミャンマーの最大の民族であるバマー族は元来騎馬民族で、チベット高原から雲南を経由して、中国の南詔の侵攻に伴い、シャン高原を南下してようやく定住した民族である。海岸へたどりついたのはそんなに遠い昔のことではない。このために、海の魚を食べる習慣がなかった。多くのミャンマー人は、海の魚を食べるとおなかをこわすと広く信じている。
このような事情があるために、一部のタイの業者が漁獲権を獲得し、近海で魚を捕獲して冷凍にして日本に輸出している。近海では海老も大量に捕れ、シンガポールと合弁のミャンマー政府の国策会社や民間の私企業などが日本へ輸出している。海老は養殖ではなく天然物中心で、衛生管理を万全にして日本へ輸送しているが、刺身として食べるには、やや基準が甘いとの日本の専門家の指摘もある。
国民の大半が戒律の厳しい上座部仏教を信仰する国であるから、酒類は余り飲まない。日本酒、ワイン、ウィスキーなどのような各国を代表するような酒はない。仏教遺跡で有名な古都バガンの郊外で、さとう椰子の樹液を発酵させて作った蒸留酒を飲んだことがある。日本の焼酎のような風味であった。
ミャンマーには現在四つの銘柄のビールがある。ミャンマービール、マンダレービール、ダゴンビールとスコールビールである。ダゴンビールとスコールビールは最近作られたビールで、レストランで注文しても余り出て来ない。ミャンマーで作られたビールは、レストランでは1瓶200円程度で飲むことができる。シンガポールのタイガービールや、ハイネケン、日本産のビール等もレストランのメニューにあるが、それらのビールは、日本で飲むのとほぼ同程度の料金が必要となる。
ミャンマー製のビールは余り苦くなく、お酒の好きでない人にとっては日本のビールよりも飲み易いかもしれない。ダゴンビールの「ダゴン」はヤンゴン の旧名である。スコールビールは、アルコール度が大変強いビールだそうである。

(10)パゴダと寺院・僧院

日本国内で刊行されている書物の中で、シュエダゴン・パゴダ寺院、スーレー・パゴダ寺院、もしくはチャウタッジー寺院などの表現を目にすることが多い。また、「シュエダゴン・パゴダは、ヤンゴンで一番大きい寺院である」と記した著名人のものさえも見られる。これらは、パゴダと寺院・僧院を明らかに混同した発想から来たものと考えられる。
 ミャンマーではパゴダと寺院・僧院は全く別の範疇のものである。ミャンマー人の宗教観を理解する上で、この点を心して欲しいものである。パゴダはミャンマー語ではパヤー(PAYA)と言い、建物自体はゼディ(ZEDI・仏塔)と呼んでいる。パゴダは、端的に言えばお釈迦様の化身と考えても良く、仏像、仏塔、聖遺物などを総称しパゴダ(パヤー)として崇める。
それ故、シュエダゴン・パゴダでは仏塔自体を礼拝の対象とするが、マンダレーのマハムニ・パゴダでは塔に対してではなく、その中に安置されているマハムニの像を礼拝の対象とする。ヤンゴンの寝釈迦像チャウタッジー・パゴダでは、横臥した釈迦像を同じくパゴダと呼んで礼拝する。バガンのアーナンダ・パトーや、ダマヤンジー・パトーなどは、塔に対しては拝まないが、中にある過去仏の四体の像を拝む。これに対して、シェズィーゴーン・パゴダでは塔自体がお釈迦さまの化身であるから、塔そのものを礼拝の対象とする。
 ミャンマー国内では、例外を除き寺院・僧院には仏塔(ゼディ)はない。またゼディの境内には僧侶は住まない。寺院・僧院は僧侶が居住して、宗教的行事や修行を行う施設である。ミャンマー仏教の研究家で僧侶である生野善應氏は、「ビルマ佛教寺院は、村落部では単独に存在し、都会では普通、土塀で囲まれる一つの境内に数寺院が集合して大規模な僧院を形成している場合が多い。」(「ビルマ佛教 その実態と修行」大蔵出版)と記し、通常、僧院の中に寺院(ポンジー・チアウン )があり、寺院は僧侶が修行し、寝食する場であると定義している。
日本の多くのミャンマー関係の書物では、寺院とは本尊となる仏像が飾られ、中に入って参拝することができる宗教的施設であると定義し、アーナンダ―・パトーやダマヤンジー・パトーを、それぞれアーナンダ―寺院、ダマヤンジー寺院と呼んでいる。そして、ミャンマーの宗教的施設をパゴダ、寺院、僧院の3区分にしている。原田正春・大野徹著「ビルマ語辞典」では、パトー(PAHTO)を「レンガ造りのパゴダ」、また「内部に回廊をもつ寺院」と定義している。ミャンマー教育省発行の「ミャンマー語辞典」では、パトー(PAHTO)を「煉瓦造りの仏塔」と簡明に定義し、同じく「緬英辞典」では「アーチ形の基部を持つ塔」とのみ定義している。パトーを寺院(チアウン)とは定義していない。
パゴダは在家の寄進によって成り立ち、在家の信者が管理運営している。パゴダ祭り等の行事は、僧侶とは直接の関係なしに在家が執り行う。出家の僧侶はそれらについては関知しない。一方、寺院・僧院は在家の布施によって成り立っているが、運営管理は僧侶に委ねられている。パゴダは在家信者の信仰の
対象であり、寺院・僧院は出家(ポンジー)及び見習い僧(コ―イン)の修行
の場である。そこには何らの関連性は見られない。
(11)結び

 現在のミャンマーの商業は、活気を呈していると言ってもいい。街中に物があふれ、各店舗は人でごった返しているような感じさえする。かつての日本の多くの商店街は、このような状況であった。シンガポール随一の繁華街オーチャード通りでは、日本の現在の商店街のように空店舗が見られるようになっている。周辺部が充実して来ているがために、空洞化現象を起こしているのである。
ヤンゴンの街も開発が進み、やがては超近代的な街並みに生まれ変わるものと思われる。社会主義の国であった関係上国有地がほとんどであるから、生活している人の居住権はあるが、権利関係は日本ほど複雑ではない。この利点をうまく生かすことができるならば、今世紀の遠くない時期に東南アジア屈指の大都会になるであろう。
同国の商業が活気を呈して来ているのは、競争原理が働いているからである。同業者が集積すればする程、競争原理は働く。競争のない所には発展と言う言葉はない。多くの日本の街づくりは、競争回避、平等主義の国是?から、一般の人にとっては他地域の商店街との違いが感じられないものになっている。ある商店街が繁栄すると言うことは、競合する他の商店街の犠牲の上に成り立つことである。犠牲をより少なくする方法は、機能を分散させることである。
新首都ネーピィドーの街づくりにおいても、各商店街機能を適切に配置することが大切かと考えられる。
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